ファイナンシャルエスコート株式会社

<IFA>柴田耕太郎インタビュー

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<IFA>柴田耕太郎
「下げ相場のときこそ、お客様ととことん向き合う。」
30年のキャリアを誇るベテランの愚直なポリシー

<IFA>柴田耕太郎インタビュー

2025/01/22

謙虚と感謝

好きな言葉は何ですか。そう尋ねると、柴田さんは迷うことなく「謙虚と感謝です」と答えた。「自分でも…まだちゃんとできていないんですけどね」と自戒するようにはにかむ照れ笑いこそが、どんな言葉よりも雄弁にその謙虚さを物語っていた。

約30年間、証券マンの道を歩んできた柴田さんがそう語るのは、自らのキャリアが多くのお客様に支えられてきたと実感しているからだ。

51歳にして独立を決めた柴田さんのこれまでの歩みを聞かせてもらった。

 

(プロフィール)

ファイナンシャルエスコート株式会社

IFA

柴田 耕太郎

日大三高野球部から一浪を経て、青山学院大学入学。卒業した1996年、野村證券株式会社に入社。約30年にわたり、様々な顧客の資産運用をサポートした後、2023年、独立。IFA業務を開始する。プライベートは、妻と2人の子どもをこよなく愛するお父さん。最近は、「息子が所属している少年野球チームのコーチも始めたところです」。

本当の信頼は、お客様の信頼を増やすことで築かれる

――柴田さんは2023年9月に前職の野村證券を退職。51歳での独立というのは一般的にリスキーにも思えますが、何がきっかけだったんでしょうか。

お客様と将来に渡って末長いお付き合いをさせていただきたい。その人生に寄り添った資産形成、運用管理をさせていただきたい。という思いが強くなったことです。会社勤めしている限り転勤や定年があり、仲良くさせていただいているお客様や強固な信頼関係が構築されているお客様でさえも離れなくてはなりません。何度も異動、転勤を繰り返す中で、『寂しい思い』『悲しい思い』『残念な思い』を数多く経験してきました。もうそういう思いをしたくないし、させたくない、というのが一番です。

同時に家族との時間を大切にしたかったからです。前職にいた頃、最後は首都圏近郊の支店に赴任しておりましたが、異動前に自宅を関西方面に購入しまして、1年半、単身赴任でした。2人の子どもはまだ小学生。可愛い盛りです。上の娘はそろそろ反抗期に入ってきた年齢で、難しい時期だからこそ一緒にいてあげたかったし、下の息子は私が昔やっていた野球を始めまして、試合や練習にもできるだけ付き添ってあげたかった。

けれど、単身赴任となると、一緒にいられるのは土日の2日間だけ。日曜の午後には私も新幹線で首都圏に戻らないといけない。家族のために働いているのに、仕事によって家族と一緒にいられないというのは本末転倒だと思ったんですよ。それで、ここから60歳までの9年間、会社で働き続けるのか、それとも……という選択が頭をよぎるようになりました。

――ファイナンシャルエスコートとはどういうきっかけで?

代表の村田が、野村證券時代の部下でした。もともと彼が独立するときに連絡をもらっていたのもありますし、妻とも家族ぐるみの付き合いでして、モヤモヤしながら働いている私を見かねたんでしょうね。妻の方から「やってみたら?」と背中を押してくれました。まだまだ子どもが小さい中、後押ししてくれた妻は私の宝です。

――野村證券で約30年の経験があるとはいえ、IFAという道はまた勝手が違うところも多いのではないかと思います。

ある程度予想はしてましたが、自分は野村證券という看板で仕事をしていたんだな、と痛感することは何度もありました。独立した後にあるお客様から言われたことがあるんですよ、「あなたを信用してお金を預けたとして、持ち逃げされる可能性もあるわけですよね」と。もちろん絶対にそんなことはしません。ですが、お客様がご不安になる気持ちもよくわかる。大手という後ろ盾のない厳しさは感じないと言ったら嘘になります。

だけど一方で、会社を辞めたことでわかったこともあるんですよ。

――というと?

退職後、在籍時にお世話になったお客様にご挨拶に行ったんです。それも私が入社して間もない頃のお客様です。当然、個人情報の持ち出しなどあってはいけませんから、当時の記憶だけが頼りです。でも、やっぱり何度も通ったお客様だから覚えていたんですよね。約30年前と同じ場所にお客様のお住まいがありました。

それで、「以前お世話になりました柴田です」とご挨拶したら、2階から「柴田耕太郎か!」と驚いた声でお客様が降りてきたんです。

――30年近くも昔のことなのに、まだ覚えていてくださったんですね。

本当にありがたいですよね。私がお世話になった頃、お客様は50代でした。ですから、今はもう80代になってらっしゃると思うんですけど、ちゃんと覚えてくれていて。

――なぜお客様は30年も前の営業担当だった柴田さんのことを覚えていたのでしょう。

お客様曰く、私が新人で元気で、かつ、一番儲けさせてくれたんだよ、と。私が担当していた頃に、目標としていたご資産の金額を超えて。そのときに私から「ご資産が、目標としてた金額を超えましたが、一旦お返ししましょうか」と言ったらしいんです。それがお客様はとても印象に残っていたようで。

――順調に利益が出ているなら、もっとその分を投資に回してもらおうとするのが証券マンの常識な気がします。なぜ柴田さんはそんなことを言ったんでしょうか。

それが私も覚えていなくて(笑)。ただ、やっぱりどれだけ資産が増えたと言っても、手元にお金がないと実感が湧かないじゃないですか。せっかく目標に到達したなら、その喜びをちゃんと味わっていただきたくて、そう言ったんだと思います。

いずれにせよ、再出発のタイミングでそのお客様と再会できたことが私の中ではすごく大きくて。我々の仕事は、お客様のご資産を増やすことも大きな使命の一つ。会社の看板を超えた信頼関係というのは、お客様のご資産を安定的に増やしていく、ニーズに合わせた資産運用・管理を継続していく、そして何よりお客様が常に安心していただくことで築かれるという原点に立ち返らせてもらいました。

好きな人のためなら何でもできる。それが、自らの原動力

――そもそも金融業界には学生の頃から興味があったんでしょうか。

まったくなかったです(笑)。学生のときはマスコミ志望でした。が、私はいわゆる就職氷河期世代。マスコミ業界は狭き門で、手当たり次第に受験しましたが、全滅でした。そんな中で、大学時代の先輩が野村證券にいまして、声をかけられたのがきっかけの一つです。それまでは日経平均株価もまったく知りませんでしたし、それどころか日経新聞すら読んだことありませんでしたから(笑)。

――よくそれで厳しい証券業界を生き抜くことができましたね(笑)。

もちろん厳しい世界ではありました。ただ、大学時代はアメフト、それまではずっと野球をやっていましたから、厳しい世界には慣れているんですよ。野球もアメフトもひたすら息の上がりっぱなしのスポーツ。椅子に座れるだけよっぽどマシだくらいに思っていました(笑)。いわゆる体育会系の世界で鍛え抜かれた人間性と経験値というのは今でも仕事で活きている局面はありますね。

――それは、どういう局面でしょうか。

二つあって、一つは競争意識ですね。入社から数年して、東海地区の支店に配属された時でした。そこで同期4人と配属が同じだったんです。やっぱり同期となると、おのずと意識し合います。お互い切磋琢磨し合えたおかげで、証券マンとして磨かれましたし、全国トップの成績をとることもできました。

――結果を出すためには、当然お客様から信頼を得なければいけません。

その地域のお客様というのは、土地柄なのか、脇が固いんです。新顔が行ったところで、なかなか心を許していただけない。でも逆に一度懐に入り込むことができたら、本当に可愛がってくださるような温かいお客様ばかりでした。

――ガードの固いお客様に可愛がっていただけた秘訣は何でしょうか。

とにかくその人を好きになることです。好きな人が相手なら、何だってできるじゃないですか。逆に言うと、すべてのお客様に同等のフォローはできないというのも現実です。

私の中で目が届く範囲は50世帯、口座数150件まで。それを超えると、どうしてもサービスにムラが出ます。会社員だった頃はそのジレンマがありましたが、幸いIFAは自分で自分の担当できるお客様の数を決められます。ですから、これからは数を絞ってでも、心から尊敬できるお客様に対して最高のサービスを提供していくことが理想ですね。

――では、もう一つの局面というのはなんですか。

特に独立してから、アスリートの方から資産運用に関するご相談をいただくことが増えました。やっぱりスポーツをやってきた者同士、分かち合えるものがあるんですよね。お話ししていても共感できるところが多いですし、何より私自身、アスリートのみなさんに多大なリスペクトがあります。30年間培ってきた金融知識が、アスリートの方々の将来に向けた資産設計のお役に立てることは何にも代えがたい喜びですね。

様々な相場の動きを目にしてきた経験こそが最大の強み

――その一方で、30年もの間、お客様と向き合っていれば、いろんな失敗もあったと思います。失敗から学んだ柴田さんの証券マンとしてのポリシーというものはありますか。

相場が下がっているときほど、お客様と真摯に向き合うこと。これに尽きますね。そもそも私が野村證券に入社したのは1996年。配属された月の日経平均株価は2万2666円でした。そこからおよそ20年強、日経平均株価が2万2666円を上回ることは一度もなかったんです。ひたすら下げ相場。いちばんひどいときは6000円台でした。そんな苦しい状況の中で証券マンとしてのスタートを切ったものですから、苦しいことだらけです。

でも下げ相場のときほど、きちんと原因と今後の見通しをお客様にお伝えし、安心感を与えることがマスト。言ってしまえば、相場がいいときは何のフォローをしなくてもお客様はある程度ご安心されています。大事なのは、相場が下がったときに、どれだけ丁寧にフォローができるか。そこで逃げ出す人間を、お客様は信用しません。とにかくまめに連絡し、何度も足を運ぶ。苦しいときこそ逃げないというのは、私が大切にしていることです。

また、この30年、バブル崩壊の暴落からハイテクバブル、リーマンショック、アベノミクス、チャイナショック等々、あらゆる局面を経験してきた私だからこそ、その経験をもとにお客様の不安を共有し、時に和らげるフォローができることが最大の強みだと思っています。

――IFAとして、これからどんなお仕事をしていきたいですか。

先ほど申し上げたように、自分のキャパシティ以上のお客様を抱えるようなことは考えていません。お客様との信頼関係を大事にしながら、仕事だけでなく、愛する家族との時間も両立できるような働き方をしていければと思っています。

私は普段車に乗っているのですが、車には半年に1回の定期点検があります。そこでオイルやフィルターの交換など保守点検をすることで、安心したカーライフを送れる。そんなふうに定期的なメンテナンスをすることで、お客様の将来に対する不安を取り除き、理想のライフプランを実現するためのお手伝いができればと思います。

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